時間は波紋状に展開する
生命体は、意識という飛翔体を搭載するロケットのようなものだ。知識は、そのロケットの上昇に従って地平面から俯瞰的なものへと波紋的に成長し、同時に精度を徐々に失っていく。ロケットの燃料が尽きた後も、意識は飛翔を続けるのだろうか。それは分からないが、ひとつだけ確かなことは、その意識の知識世界はもはや、具体的な精度をなおさらに喪失して概念的な大まかなものへとなり続けるだけだろう、ということだ。
いずれ、時間が、と言うか意識の推移が過去から未来への直線的なものでは無く、同面から俯瞰への波紋的なものならば、前者の時間観を前提とする意識の流れ記述の技法は無意味なものとなる。真に探求されるべきは、具体から概念への変容、あるいは具体・現在であり続けるものと過去となってしまうもの、との違い、あたりであろうか。
具体であり続けるものは、新たな情報をもたらし続けるもの、だ。情報提供の停止は、その過去化を意味する。クラシックや古典から分かるように、新たな情報の提供、は存在の同時性を必ずしも意味しない。俯瞰への上昇に合わせて見直すたびに新たな発見をもたらすものは、少なくともその発見者にとっては具体であり続ける。このような宝石的多面性を、ここでは深さ、と表現するのが適切だろう。おそらくにその深さは、精神的な深さ、として直観されるだろうからである。この深さ、こそが、また、永遠の命、の正体でもあろう。