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原子論的進化論

原子における電子軌道のように、進化にも同心円的レベルが存在する、と仮定すると、いろいろと説明しやすくなるかもしれない。レベル間の跳躍にはそれなりの蓄積が必要で、また同レベル内での可能な種 (クラス) は有限既定である、とすれば、進化が現前的では無く、一方過去には爆発的であったことの説明もつこう。

最も内側のレベルには、生成者と分解者が入る。前者は植物系の親クラス、後者は動物系の親クラスだ。前者は世界・自然から記号を析出し、後者はその記号のコミュニケーションにおける有用性を検証する。

▼幻想ゆえに痛む

そんじょそこらの石が砕かれたとて、誰も悲しみはしない。しかし、その石が「理想的形態」だったなら、そう感じた人はそれが砕かれることを悲しむだろう。理想的形態は、人の心がそれに投影した「幻想」だ。

大切な人の想い出を、誰かが虚偽の悪意で塗り潰そうとすれば、その想い出の持ち主はその行為に「痛み」を感じる。幻想で幻想を傷つけることができ、そしてそれによって人は痛む。幻想はそれ自体が不安定で儚いものだから、それを維持しようとするのは意図的努力を要する。その努力さえもが儚くなることを、人は痛みによって予感し、防ごうとする。

時間は波紋状に展開する

生命体は、意識という飛翔体を搭載するロケットのようなものだ。知識は、そのロケットの上昇に従って地平面から俯瞰的なものへと波紋的に成長し、同時に精度を徐々に失っていく。ロケットの燃料が尽きた後も、意識は飛翔を続けるのだろうか。それは分からないが、ひとつだけ確かなことは、その意識の知識世界はもはや、具体的な精度をなおさらに喪失して概念的な大まかなものへとなり続けるだけだろう、ということだ。

いずれ、時間が、と言うか意識の推移が過去から未来への直線的なものでは無く、同面から俯瞰への波紋的なものならば、前者の時間観を前提とする意識の流れ記述の技法は無意味なものとなる。真に探求されるべきは、具体から概念への変容、あるいは具体・現在であり続けるものと過去となってしまうもの、との違い、あたりであろうか。

具体であり続けるものは、新たな情報をもたらし続けるもの、だ。情報提供の停止は、その過去化を意味する。クラシックや古典から分かるように、新たな情報の提供、は存在の同時性を必ずしも意味しない。俯瞰への上昇に合わせて見直すたびに新たな発見をもたらすものは、少なくともその発見者にとっては具体であり続ける。このような宝石的多面性を、ここでは深さ、と表現するのが適切だろう。おそらくにその深さは、精神的な深さ、として直観されるだろうからである。この深さ、こそが、また、永遠の命、の正体でもあろう。